「あん」の歴史は、和菓子とくに、まんじゅう、ようかんの歴史とともに古い。洛東建仁寺第35世龍山禅師が、宗(現在の中国)から歴応4年(1333年) 帰朝した、その時宗の林浄林が一緒に来朝し、奈良の二条に居住した。地名の塩瀬を姓として奈良まんじゅうの製造を業としたといわれている。
まんじゅうの日本での始まりは、鎌倉時代の初期といわれ、ようかんの前身は「羹」(あつもの)で、茶道の盛んになった室町時代に点心として茶とともに用い られるようになり、後に砂糖が加えられて「羹しようかん」が生まれた。その羹しようかんから、練りようかんが作られ、天正17年(1589年)京都の駿河 屋が元祖といわれている。
最中は、元来が「せんべい」に類した干菓子であったが、後に「あん」が入るようになったのが、江戸時代の中頃といわれ、江戸吉原で、せんべいで名を売っていた、菓子舗「竹村伊勢大橡」の店から「最中月」として売出されて、人気を博したのが、初めとなっている。
和菓子では、「あん」が重要な役割を占めており、「あん」によって製品の良否が支配されると言って良い程で、明治中期頃までは、菓子製造業者の自家製あんに頼っており、和菓子の発展と共に「あん」の歴史も発展した。
明治時代にいたり、和菓子から広く国民大衆のなかにとけ込むようになり、需要の増加と菓子の種類の多様化に伴って、菓子製造業者の仕事の中から、「あん」の製造部門を分離して専業化することが考えられ、あん製造が独立企業として発生し現在にいたっている。
このため、長い間「あん類製造業者」は、菓子製造業者の下請的隷属的因習が抜け切れなかったが、菓子業界の発展と共に製あん業の企業数も増え、都市だけでなく全国各地に敵在するようになり、独立企業としての社会的地位を築くようになった。
明治20年頃、東京で本井健吉氏(東京根津製紹所)、伊藤源之介氏(一源製紹所)が、生あんを製造し「あん類製造」の元祖といわれている。大阪では、明治 30年頃に内原駒蔵氏が生あんを製造しており、また明治33年頃、北川勇作氏が静岡県承元寺村(現在の清水市)から大阪に出て開業し成功をした。
生あんは、水分が多く腐敗が早いためその販路も極く狭い範囲に限られ、他の地域との交流も少なく、1年のうち冬期を除いては、夜間又は早朝作業という特殊 な企業形態で家業(生業)的性格が強いため、「あん頬製造業」には大企業は勿論、未経験者で開業するものは少なく、"ノレン"分けにより各地に支店又は独 立店を開業するものが多かった。このため、各地に同名の屋号が多くみられる。
第二次世界大戦の末期にいたり、原料雑豆が統制となり、続いて企業整備が行われ、企業数も大幅に減少した。戦後、昭和22年頃から、国民の甘味に対する要 望が強くなるにつれて、主食として家庭に配給された雑豆を入手し「あん」の製造を再開するものがでて来た。また教育庁に運動をし、当時の学童給食の一部に 「あん」を採用してもらい政府から原料の払い下げを受けるなど努力を続けていた。
昭和26年3月雑穀の統制が解除されるとともに、あん類の製造を再開又は新規に開業するものが続出した。
生あんは水分が多く、変質しやすいため長期の保存ができないため、生あんを乾燥して貯蔵することが考えられた。
明治20年頃の北海道の「うまいもの」番付の中に、八雲軒のさらしあん(乾燥あん)が載っており当時から商品化されていたようである。(昭和39年函舘商 工会議所発行「函舘経済史」には「さらしあん」は、明治16年函舘の人中川庄太郎氏が小豆をもってこれを製造経営していたものを、明治18年小菅産太郎氏 が譲りうけ、改良を加えて製造に努力した結果、明治42年に同業者1名を加えた2店の生産量は、132,500斤(約80トン)金額で12,700円に達 した」とある。)
明治30年頃、生あん製造業が企業として探りあげ製造をはじめ、大正4年の大正博覧会に出品するまでになり、インスタント食品として評判もよく、-般家庭の汁粉用、おはぎ用として大いに利用された。しかし、生あんに比べ風味の点で難点があるため最近の需要は、頭打ちとなっている。
あんは、製菓・製パン等の素材であるが、この練あんは完成品としても消費されている。
戦後、パン食の普及とともに、あんパン用および食パンにつける「加糖餡」の需要が増大し、昭和36~37年頃から、生あんに砂糖その他の甘味を加えて練り 上げた製品が、製パン業界に利用されるようになった。最近は、製パン業界だけでなく、労働力不定から製菓業界・甘味喫茶業界その他からも新しい需要が出て 来て、生産は急速に増大している。
製餡業は、明治20年代の中頃から専門業として発生したもので、団体的組織はなかったが、大正時代中期頃から東京・大阪等の消費都市で同業組合が結成され、工業組合法の制定をみてから少しづつ団体活動が行われるようになった。
昭和に入り、満州事変から日中戦争と戦局が拡大するとともに、各都道府県に工業組合の設立が活発になった。昭和15年に初めて全国組織として、日本製餡工業組合聯合会(会員数47組合、業者数1,100名)が結成された。
その後、第二次大戦に突入するに及んで、昭和17年食糧管理法により、主原料雑豆の自由取引が禁止され、且つ至上命令として、企業整備が施行されたので企業合同又は転廃業を行なわなければならなくなった。
聯合会もまた、日本菓子工業組合連合会の傘下に入るようになったが、戦局が熾烈になるにしたがって、各府県の組合も亦聯合会も空襲などのため自然消滅の形で解消した。
日本製餡協同組合連合会 50周年記念誌 より抜粋